KEIICHI TAHARA “Les Sens”展

21 June 2017

2017年6月6日、世界で精力的に活動していた田原桂一さんが肺がんのため65歳で亡くなった。

1977年に発表された「窓」を見ると思い出す。
70年代のエレベーターもないPARISのアパルトマン最上階に住んでいた友人たちの部屋の片側は屋根に沿った急勾配に天窓やペンキが剥げた観音開きの窓や小窓から見える低い雲や隣の屋根を見るたびこれがPARISだと思った。

youTube 窓 1977

告別式前日の6月9日から銀座ポーラ美術館で始まった

「KEIICHI TAHARA “Les Sens”展」

鉱物を精製後に出来たダストの真っ黒な黒寒水石を会場に敷き詰め、

自分の足音を聴きながら鑑賞する写真展を訪れた時の静かな時間。

会場は動画だけ不可だった。

Phone写真でご冥福を祈りながら編集したショート ムービーがようやく完成。

合掌。

Les Sens 2017

■田原桂一「Les Sens」
会期:2017年6月9日(金)〜7月9日(日)31日間 ※会期中無休
開館時間:11:00〜20:00(入場は19:30まで)
入場料:無料
会場:ポーラ ミュージアム アネックス
   中央区銀座1-7-7 ポーラ銀座ビル3階
アクセス:東京メトロ 銀座一丁目駅 7番出口すぐ / 東京メトロ 銀座駅 A9番出口から徒歩6分 JR 有楽町駅 京橋口から徒歩5分

プラハで8月27日まで開催している展覧会詳細はこちら
■プラハナショナルギャラリー展覧会
“PHOTOSYNTHESIS 1978-80 FEATURING MIN TANAKA” KEIICHI TAHARA
Date: 17.03.2017 - 27.08.2017
Place: Trade Fair Palace

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月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に‥‥ 

祇をん東の芸妓つね桃さんと舞妓の叶紘さん

今年も行ってきました祇園白川「花見の宴」

8 Apr 2017

地方の美弥子お姐さんの三味線と唄が響き、

祇をん東の芸妓のつね桃さんの篠笛、舞妓の叶紘さんとともに

小雨まじりの祇園白川のお茶屋さんから巽橋の満開桜を愛でながら午後のひととき、

iPheneで撮ったMovie『つね桃さんと桜』

毎春通っていたが、翌週ブラタモリ「#70 京都・祇園」で知ったことがたくさんあった。

鴨川と八坂神社のあいだに広がる日本一の花街・祇園はどうできた?

お茶屋さんや大正時代の建仁寺境内への移転、路地のギザギザ‥‥。

2週間早くオンエアされていたら小雨の京都をもっと楽しめた気がした。

 

「一力」は外壁の写真を撮影しただけでお邪魔したことはなかったが、

この店の屋号は「万屋」だったそうで、仮名手本忠臣蔵では

「万」の字を二分して「一力」という屋号に変えたおかげでこの芝居が大当たりし、

屋号を「一力」に変えたそうだ。


こんなブラリ解説も見つけた。

天龍寺 小雨の桜 170408 撮影/西田圭介 祇園白川 望月 お茶屋 小雨降る巽橋 満開桜

抱腹絶倒!つね桃さん直伝のお座敷芸「サッポロビール★」乞うご期待

祇園東 つね桃 サッポロビール★ 祇をん東 芸妓 つね桃

 

こんなこともありました

10年ほど前

嶋原(島原)輪違屋の如月太夫と

奇跡の同席

席にいた舞妓さんや芸妓さんたちですらお会いしたこともなく皆興奮していたが、

お隣のお座敷に現れた嶋原 輪違屋 如月太夫のオーラと笑った時のお歯黒に一同驚かされた。

時代劇で見る太夫道中は置屋さんから揚屋(お茶屋)さんに向かうため内八の字ですが

お会いした時はお付きの方と車で来ており、童女の禿(かぶろ、かむろ)も居らず、

この日は三枚歯の黒塗り高下駄も歩く姿を見ることは叶わなかった。

興奮して素足すら気づかなかった。

「輪違屋(わちがいや)」と「如月太夫」
1688年(元禄元年)創業。1856年に焼失し翌年1857(安政4年)に再建。現店舗(京都市下京区)は1871年(明治4年)に現在の姿になった。日本で唯一「太夫」を抱える店で、1984年(昭和59年)6月1日に京都市有形文化財に指定。浅田次郎の小説の舞台にもなった。
島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、国の許可証である「鑑札」を持ったお茶屋は輪違屋のみ。
2016年12月現在、輪違屋に所属する正式な太夫は花扇太夫、如月太夫、薄雲太夫、若雲太夫、桜木太夫の5人だけらしい。お座敷のつとめを中心に多くの行事やイベントに参加し、白塗り、口紅は下唇のみ、お歯黒、地毛による髪型だけでも37種類もあり太夫にのみ許された高貴な身分の女性の髪形もあり、髪飾りは豪華絢爛。
伊藤博文の寵愛を受けた桜木太夫は、「維新の名花」といわれ1909年(明治42年)博文がハルビンで安重根によって暗殺された後に尼となった。

夜桜と奇跡の如月太夫にお会いした写真もいずれブログに。

祇園白川 望月 お茶屋

嶋原太夫の一人、司太夫さんの

「嶋原の太夫」と「江戸吉原の花魁」の違い太夫の解説

嶋原太夫を花魁ではなく「こったい」と呼んでください
よく、「太夫」と聞くと花魁という言葉が返ってきます。 
そして、嶋原は花街(かがい)だったにも関わらず、吉原と混同されます。
しかし、実は花魁と呼ばれる太夫はあくまでも姿形を嶋原太夫を参考にし、真似したものであり、全くの別の存在、文化になります。
しかし、今は作品などから花魁が有名であり、嶋原太夫の存在もあたかもそのように
描かれてしまいます。
なので、ここでは嶋原の太夫とはどんな誕生だったのか
嶋原の太夫と花魁との違いは?などをご案内させていただこうかと思います。

太夫の由来、太夫の特徴などぜひお読みください。
嶋原太夫の一人、司太夫さんの京都・嶋原  〜司太夫夢灯篭〜 詳細HPはこちら
司太夫さんのブログはこちら

 

誤記を避けるため
お茶屋、舞妓、祇をん東、嶋原の太夫‥‥調べてみた。

 

○ 祇園東
 
八坂神社のお膝元、祇園界隈は12世紀にはすでに京の中心地として栄えていたが応仁の乱によってすべてが燃え尽くされ、 江戸時代に入って、八坂神社や清水寺に参拝する人々でふたたび賑わいを取り戻し、踊りや唄・三味線などでもてなす芸達者な茶汲み女たちが人気となり、次第に専門化し祇園の芸妓や舞妓の始まりだと言われ、茶店ではなくお座敷で遊興できる「お茶屋」として、17世紀の中頃には徳川幕府に公認され、1732年に茶屋株をもつ特別な商形態を許され、1881年第三代の京都府知事の命で祇園は甲部と乙部の二つに分けられ、1870年に取り払われた滋賀県膳所藩の広大な屋敷近辺とその屋敷跡地一帯のお茶屋が乙部と指定された。
祇園乙部は1949年に祇園東新地と名を改め、1955年頃から祇園東と称され今日に至り、東大路と花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがる地域で、飲食店やスナックのビルが建ち並ぶ谷間に12軒のお茶屋があり祇園東お茶屋組合・祇園東芸妓組合もある。

 

○ 京の五花街

花街は、お茶屋、置屋、芸妓・舞妓で組合を形作っている伝統的な遊興の界隈のこと、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒と祇園東の五つの花街(かがい、はなまち)があり五花街と呼ばれ、以前は太夫職がいる島原も含まれて六花街だった。
京都独特の伝統芸能と文化を護り育てるために、1996年(平成8年)社団法人京都市観光協会と京都花街組合連合会により財団法人京都伝統伎芸振興財団(愛称:おおきに財団)が設立され、様々な花街の保存継承事業を行っている。

 

○ 置屋

専属の芸・舞妓を育成してお茶屋に送り出すやかたが「置屋」。
芸妓さんや舞妓さんは置屋に所属し、舞いや茶道、お囃子や唄・三味線などの伝統芸能や作法の訓練を受け、お茶屋や料亭のお座敷、様々な催しでお客様をおもてなししている。

 

○ お茶屋

芸妓・舞妓を(時には会場や料理も)手配する。
幕末から明治初期にかけての最盛期に祇園白川には500軒?ものお茶屋があったらしい。

 

○ 祇園東歌舞会の芸事

舞踊 /藤間紋寿郎師匠、長唄 /杵屋勝禄師匠、清元 /清元菊輔師匠、笛 /藤舎名生師匠、お囃子 /中村寿鶴師匠、中村寿慶師匠、点茶 /裏千家鈴木宗博師匠。

 

○ をどり

4月に祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京をどり」と上七軒の「北野をどり」、5月に先斗町の「鴨川をどり」があり、秋は祇園東が11月に「祇園をどり」を催している。

 

知っているようで意外に知らない花街やお茶屋。間違いのご指摘などよろしくお願いします。管理人

 

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昭和の世界オーディオ遺産

1908年製、エジソンの蝋管蓄音機と

昭和初期1925年頃、当時1000円で家が建つ時代の超高級蓄音機を聴いた

20 jun 2014

アンティーク屋さんでたまに見かける蓄音機。エジソンの蝋管を初めて見た。

しかも音も聴けた。

エジソン蓄音機用蝋管 Edison  1908年製録再可能エジソン蝋管大型蓄音機

こちらはホーン固定式の小型エジソン蝋管蓄音機はなんと12万円!

ホーン固定式の小型エジソン蝋管蓄音機

 

ハピポな動画の冒頭は、

見たことはあっても実際の音を聴いたことが無かった1908年製録再可能エジソン蝋管大型蓄音機。

蓄音機とはいっても、昭和初期1925年頃は家が建つ1000円もしたそうだ。

子供の頃家にあったポータブルの手回し蓄音機と異なって

これは2枚扉の高級家具にハンドルが付いている。

"HIS MASTER'S VOICE"で御馴染み英グラモフォン社(現 英EMI)のアメリカの姉妹会社

ビクタートーキングマシン社(Victor Talking Machine Company.Camden.N.J.)の

「Victrola Credenza」にサボテン針で1曲目を聴いた。

HIS MASTER'S VOICE" Victoria Credenza 昭和初期の蓄音機 ビクタートーキングマシン社 サボテン針 蓄音機 赤いサボテン針

Capitolで電気録音したSP盤「 Les Paul & Mary FordのVAYA CON DIOS」

 

竹針、鉄針は知っていたがサボテン針も始めて見た。

写真の袋に入っている赤色のもので鉄針に比べると柔らかい音だった。

僕のリクエストでCapitolで電気録音したSP盤「 Les Paul & Mary FordのVAYA CON DIOS」

を聴かせていただいた。

動画はiPhoneですが、これだけいい音で再生されるとはびっくりだった。

このイベントを開催した「PACO 1977」は

1977年に渋谷でオープンした楽器を愛するミュージシャンたちが毎日自分たちの出入りできる

イタ リアのバールやイギリスのパブのような感じのところが欲しい。

そこは音楽を語れる、楽器を作ってもらえる、新しい情報がフェイストゥーフェイスで

信頼のも とに交換出来る、修理やメンテナンスをやってくれる気さくなところがいい。

この様な要望にこたえてコミュニケーションスペースとしてスタートした。

一時営業を中断していたが、設立当時の代表者の椎野さんが再びプロヂュースし2013年に再興した

ギターサロン「PACO 1977」。

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地元経堂の文化遺産

東京農業大学全學應援團の「大根踊り」フルバージョン

稲荷森稲荷神社、秋の例大祭で収録

8 Oct 2016

明治31年(1898)に創立された大日本農会附属私立東京農学校(現/東京農業大学)は

昭和21年(1923)に移転されるまで渋谷・常磐松町(旧常磐松御料地、現/渋谷区渋谷四丁目付近で

青山学院の敷地)にキャンパスがあったため通称「大根踊り」の名で親しまれる曲は

大正12年(1923)東京農業大学高等科3年生だった市村正輝さんの作詞・作曲

「青山ほとり」として生まれた。

曲名は当時の地名と風景を感じさせるもので、

「大根踊り」は東京農業大学全學應援團が大根を持って応援を行うことに由来しているが

応援歌ができた当時から大根を持っていたわけではないらしい。

一説には戦後初の収穫祭(1952年11月)のプロモーションとして考案されたらしい。

大根は葉付きのもので一度使用すると傷むため、使い回しは厳禁!

使用された大根は、見ていた観客へ昨日も無料提供されていた。

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1973年横浜港から 

バイカル号で世界一周 写真旅に出た

元祖セルフィー(自分撮り)の予告編動画

2 May 2015

 

これはニコンFにワイドレンズの24ミリをつけ

距離をリーチに合わせ、手首を曲げてカメラを自分に向けてシャッターは親指。

スマホや携帯で簡単に撮影できる21世紀と違い

写っているかどうかもわから無いフィルム時代ならではの映像です。

世界一周写真旅のブログと共に公開する予定でしたが

全体の構成すら決まらず時間が経ってしまい

映像中にあるGoogle Earthの移動ツールも今は無くなってしまった。

こちらは予告編

2017.01.10 ようやく公開できました。 

元祖自撮り! 
世界一周108日間セルフィーの旅 1973年。
Self portraits 1973. Around the World in 108 days 

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モーリシャスで遭遇した

ヒンドゥー教徒の針を体や舌に刺す苦行は

ハッピー&ピュア、ポジティブな究極のハピポ動画!?

13 May. 1987

 

「神はモーリシャスを最初に創り、そしてモーリシャスを真似て天国を創った」

トム・ソーヤーの冒険の著者、マーク・ トゥエインに言わしめた

モーリシャスの路地で遭遇した聖なるヒンズー教徒の苦行は

身体中に長い針を刺し一部は舌を貫通していた。

こうすることで悪魔が口から侵入するのを防ぐためらしいが

平気な顔の青年もいれば悲鳴に近い声を発する者もいた。

 

カバディ(KAVADI)と呼ばれる奇祭が神々への感謝を表し

ヒンドゥー寺院に参拝する1ヶ月前より厳しい菜食と禁酒、禁欲で

心が解放された時に痛みを感じること無く神聖な苦行を成就できると信じられている。

 

この苦行は美徳や若さ、力、悪を砕くスプラマニヤ神(ムルガ神)を讃え

家族や友人に付き添われ神への忠誠を誓い、感謝を捧げながら行進する

究極のハッピーでピュア、ポジティブなハピポ動画だ。

 

この場は動物系の物を身に付けてはいけないと注意され、

急遽カバンに靴を押し込み裸足で撮影を続けた。

このビデオを撮影した後の1992年にモーリシャスは共和制となり
別名インド洋の貴婦人と呼ばれ親しまれ本島の大きさはほぼ東京都と同じで
イギリスの植民地時代にインドからの移民も増え
外務省情報によるとインド系68.3%、クレオール系28.5%、中国系3.2%
ヒンズー教が50%、キリスト教32%、イスラム教17%、仏教0.7%の人口比。

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日本初のハンググライダー「大風呂敷一枚目」が鎌倉の空を飛んだ

24歳、ワクワクのハピポ

12 Nov. 1972 鎌倉

 日本の空を初めて飛んだハンググライダー「飛んだ!大風呂敷一枚目」は電気通信大学、

東京工業大学の学生を中心に作られた東京ハンググライダー研究会が

竹竿とナイロンタフタ、タイヤチューブで組み立てた機体で斜面を駆け下りて

テークオフするシンプルなものだった。

  この動画はあまりにも長い間行方不明だったためMacで簡単に編集できる時代になり、

当時考えていたコンテが動画にできた!

 1972〜73年に撮影された映像は様々な失敗フライトからアイドル小柳ルミ子さんの

TVCM撮影までが収められた総集編である。

 

こちらは1973年4月4日全国ネットのフジテレビ「小川宏ショー」露木レポートのコーナーで

オンエアされた16ミリフィルム。

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21歳、ドキドキのハピポ

多摩川の河原に蛍光ピンクで東京都と神奈川県の県境をペイントした

雲野耀弘さんとの出会いと撮影が現代美術への興味を加速させた

6 Sep. 1969  銀座

 1969年頃よりフーテンの聖地、新宿凮月堂に通い出した僕は

1968年の毎日現代美術展で入線した新進作家の雲野耀弘さんと出会った。

 彼からその年の夏に地図上にある東京都と神奈川県の県境を直接多摩川の河原に

蛍光ピンクの水性塗料で描く企画を聞いた。

 蛍光塗料のシンロイヒ工業から石油缶サイズのペイントをいくつか提供してもらい、

8月1日〜3日までテント持参で黙々破線を描き続けた行為を撮影した。

 これはサンケイ新聞出版局写真部で学生バイト時代に徳川夢声責任編集の

月刊随筆サンケイ/1969年刊のグラビア連載企画「1億分の1」シリーズ3、

“ムダ”に生きるという企画で掲載された。

 凮月堂ではコンセプト・アーティストでフーテンのガリバー(安土修三)

街頭パフォマンスの芥正彦さん、アングラ映画の旗手宮井陸郎さんや小林はくどうさん達と

出会い、あらゆるジャンルのアーティスト達の撮影を始めた。

ある日生まれたアイデアが、美術手帳の特集「行為する芸術家たち」に掲載された

「ハプニングGINZA 1969」。

美術手帖1970年12月号 行為する芸術家たち 美術手帖1970年12月号 行為する芸術家たち ハプニングGINZA1969 Happening GINZA 1969

 

美術手帖 1973年12月号「行為する芸術家たち」に掲載



 1969年9月6日の土曜日の午後、銀座4丁目の交差点で服部時計店の時計が2時をさした時に

ビニールコートされた紙袋に入れた赤、青、白、黄色のポスター・カラーの水溶液10ℓを

交差点内に置いた。

 信号が変わると動き出した車のタイヤが路上にアートを広げていく過程を、

大学の研究室から借りたアリフレックスの16ミリフィルムで屋上から撮影した。

『Happening GINZA1969』は主にハプニングと呼ばれていた表現行為でアースワークとか

コンセプショナル・アートとか言う人もいた。まだ21歳の学生だった。

真昼のハプニング 朝日新聞

 

真昼のハプニングとして翌日曜、朝日新聞都内版のニュースに

▷六日午後二時すぎ、銀座四丁目交差点の車道に白、赤、黄、青色の絵具のような塗料が流された。

 走り回る車で、たちまち道路はいちめん抽象画風になった。

 現在では滅多に出会うこともない自転車と大八車が銀座の交差点を渡っているのが印象的!

▷知らせでかけつけた築地署員が水を流して洗い"道に描いた絵"は約十五分後消されたが、

 人波でごったがえした土曜日午後の、ハプニング。あっという間に人が集まった。

▷ 塗料は、ビニールの買物袋に入れてあり、交差点の曲がりかどの、ちょうど車が通るところに

 ぶちまけられた。「道交法でいう路上の危険物とは違うから、お そらく取締りの対象にはならな

 いだろうが、それにしてもなんのために・・・」と同署員は首をかしげている。

写真は路上にまかれた塗料(銀座四丁目交差点 で、鈴木一成さん撮影)/ 朝日新聞 1969年9月7日

16面東京版、より

 

『日本大百科全書 19』ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 2001 小学館 1988年1月1日初版第一刷りより

 

百科事典のパフォーマンスの項に取り上げられた

銀座4丁目交差点におけるパフォーマンス。

 

1969年9月西田圭介と九民(きゅうみん)は、赤、青、白、黄色のポスター・カラーの水溶液を銀座

4丁目の交差点の4か所にぶちまけた。そこを通る自動車のタイヤがローラーのかわりをすることに

よって、自動的に各色が路上に広がって美しい模様をつくりだし、その場所を非日常的な空間に変え

た。 この写真は、当日西田圭介が16ミリフィルムで撮影したもの。/ 写真は『日本大百科全書 19』

ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 2001 小学館 1988年1月1日初版第一刷りより

Happening GINZA 1969

撮影はアリフレックス16ミリフィルム。Sound / ローリー アンダーソン

Happening GINZA 1969 youTube

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クリエイティブな作品が誕生する

ハッピーでピュア、ポジティブな瞬間を

取材・撮影で構成する映像ドキュメント

Creator's ハピポ®はこちら 

ハピポ hapypo.com あなたのワクワク熱中を映像に残す ハッピーでピュアなポートレート撮影 わかる!いいね!をかなえる ハッピーでピュアなポートレート撮影
撮影 西田圭介 公益社団法人 日本広告写真家協会 正会員                 

ハピポ hapypo.com クリエーターの作品が誕生するハッピーでピュア、ポジティブな瞬間を取材・撮影で構成する映像ドキュメント CREATOR'S ハピポ® 商標登録 第5678372号 撮影 西田圭介 公益社団法人 日本広告写真家協会 正会員

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