庄野真代の
The世界漫遊記

800412_成田
▶︎よ〜いドン

タイ
800413_BANGKOK
▶︎ウォーターフェス
▶︎トクトク    
800415_PATAYA BEACH
▶︎パタヤ行きたやゴムゾウリ


インド
800420_CALCUTTA
▶︎カルカッタからの手紙
▶︎カルカッタにて
▶︎インド・ネパール旅行の宿命GERI
ネパール
800426_KATHMANDU
▶︎カトマンズ・ノート
インド
800504_VARANASI
▶︎ベナレスの雀物語
▶︎ベナレスの砂嵐
▶︎恐怖のチャイニーズ・レストラン
▶︎ニューデリーは大都会

800507_AGRA
▶︎商売熱心リキシャ兄弟

800509_DELHI
▶︎ニューデリーは大都会
▶︎プロブハットホテルの
▶︎エア・クーラー

▶︎デリーの銀座レストランで
すき焼きを食べた

▶︎ピンクシティーEXPに乗ったら
みんなおじいさんになった


★ インドを召し上がれ
▶︎カンパ・コーラに
グルコビスケット

▶︎Campa Colaって
現在 How match?


800515_JAIPUR
800517_UDAIPUR
▶︎夢のおにぎりピクニック
800523_AURANGABAD
800523_BOMBAY
800528_TRIVANDRAM
800531_COCHIN
800605_BANGAROR
▶︎バンガロールで医者にかかった次の日に
800611_BOMBAY

ソ連
800614_MOSCVA
800617_LENINGRAD
800620_MOSCVA

オランダ
800621_AMSTERDAM
800624_OBERGURGL

ドイツ
800625_MüNCHEN

イタリア
800626_VENICE
800629_MILANO
ミラノ生き別れ事件

フランス
800630_PARIS
800701_COGNAC
800704_PARIS

デンマーク
800707_KØBENHAVN

ノルウェー
800708_OSLO

チュニジア
800711_TUNIS
800715_SOUSSE
800716_MAHDI
800717_DJ1ERBA
800718_KSAR HADADA
800720_DOUZ
800722_KAIROUAN
800723_TUNIS

モロッコ
800725_CASABLANCA
800728_MARRAKECH
800730_FEZ
800801_TANGER

スペイン
800804_MALAGA
800808_GRANADA
800811_CORDOBA
800813_SEVILLA

ポルトガル
800815_LISBON
ついに野宿。
リスボンの夜は長かった


スペイン
800818_MADRID
▶︎マヨール広場野外ミュージカル
ARANJUES
800821_TOREDO
800822_MADRID
800823_BARCELONA
サクラダファミリア

フランス
800824_NICE

モナコ公国
800826_MONTE CARLO

フランス
800828_LYON
800829_TOURS
800830_BLOIS
800901_PARIS

ベルギー
800903_BRUSSEL
800905_BRUGGE

ルクセンブルク大公国
800906_LUXEMBOURG

ベルギー
800907_ANTWERPEN

オランダ
800908_AMSTERDAM

デンマーク
800910_KØBENHAVN
800911_ROSKILDE

ドイツ
800913_FRANKFURT
800914_ROTHENBURG
900915_AUGSBURG
800916_MüNCHEN
▶︎ホフブロイハウス
800919_FüSSEN
800921_MüNCHEN
▶︎ノイシュバインシュタイン城
▶︎オクトウバフェスト

フランス
800923_CHAMONIX

スイス
800925_GENEVE
800927_LAUSANNE
800928_ZERMATT

イタリア
800930_COMO

スイス
801001_LUGANO
801002_GENOVA
801003_ZüRICH
801004_BERN

フランス
801006_PARIS

スイス
801008_INTERLAKEN
801009_BRIENZ
801010_GRINDELWALD

リヒテンシュタイン侯国
801013_LICHTENSTEIN

オーストリア
801014_ZARTBURG

ドイツ
801015_ROSENHEIM
801016_BERCHTESGADEN

オーストリア
801017_WIEN

イタリア
801020_FIRENZE
ピサ
801022_PERUGIA
801023_ASSISI
801024_ROME

バチカン市国
801026_VATICAN
▶︎サン・ピエトロ寺院で、
日本に行く前の
ヨハネ・パウロ二世に
会うことができた

イタリア
801030_NAPOLI
801031_POMPEI
801031_CAPRI
801101_BRINDISI

ギリシャ
801102_PÀTRA
801103_ATHĒNAI
801105_MYKéNAI
ミケーネ

ケニア
801107_NAIROBI
801109_MASAI MARA
マサイ族
801112_AMBOSELI
801114_MONBASA
801116_NAIROBI

エジプト
801117_CAIRO
▶︎隔離施設クワレンティーナに収容
801122_出所
801123_GIZA
801125_LUXOR
▶︎王家の谷
801127CAIRO
▶︎エジプト博物館

ギリシャ
801129_ATHĒNAI
801130_MYKONOS
801203_ATHĒNAI

トルコ
801206_ISTANBUR
▶︎やってきましたイスタンブール

▶︎トプカピ宮殿とトルコ風呂

フランス
801209_PARIS
︎801213_▶︎決定!パリ公演
801214_マジックバス

イギリス
801215_LONDON
801219_LIVERPOOL
801220_LONDON

アメリカ
801223_▶︎NEW YORK
801224_BOSTON
801227_NEW YORK
▶︎ニューミュージック
歌手として初の快挙
︎カーネギーホール出演
▶︎NEW YORKのライブハウス

810112_WASHINGTON,D.C.
810114_CINCINATTI
810117_NASHVILLE
810119_ORLANDO
810120_DISNY WORLD
810121_MIAMI
810122_BAHAMA
810125_MIAMI
810127_NASHVILLE
810203_ATLANTA
▶︎スピード違反
810206_MACON
810207_AUSTIN
810208_ATLANTA
▶︎黒人の教会でゴスペルミサ
810210_NASHVILLE
810212_SAN ANTONIO
810215_ORSTIN
▶︎マリアッチミサ
810218_EL PASO
810222_NEW ORLEANS

メキシコ
810225_MERIDA
810227_ISLAMUJERES
▶︎マヤ遺跡
810302_MERIDA
▶︎チチェンイッツァ遺跡
810304_MEXICO CITY
▶︎国立人類学博物館、最高!
▶︎ティオティワカン遺跡
アメリカ
▶︎810308_LOS ANGELS


 

 

 

世界一周1973ブログ

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1978年「飛んでイスタンブール」の大ヒットで大晦日『第29回NHK紅白歌合戦』に初出場し、
同年「モンテカルロで乾杯」「マスカレード」、1980年にはCM曲にもなった作詞作曲歌唱の
「Hey Lady 優しくなれるかい」がヒットし、TBS「ザ・ベストテン」に出演していた
庄野真代さんはiPhoneも携帯も無かった1980年4月12日、成田のVIPルームで記者会見をし
世界一周バックパックの旅に出てしまった。

この旅こそMAYOと僕らが全青春を注ぎ込んだ「庄野真代のTHE世界漫遊記」(サンケイ出版刊、1982年)プロジェクトだった。
あれから40年以上も経ってしまった古いデータやエアメールがごっそり事務所から出土! した
最初の写真が「マサイ族とMAYOとラジカセ」写真なり。
撮影filmはコダクローム64デイライトタイプ。退色しない外式発色現像ため当時の色が蘇る!

40年近くの時を経た「庄野真代のThe世界漫遊記」(サンケイ出版刊1982年)を電子書籍ではなくWEBで面白く表現出来ないかと思い、仕事の合間に資料整理をしながらアップする予定。

結構大変なデータ量なり。

メールも無い1980年のなんとも不自由で自由な「旅」の通信手段は絵葉書とAerogramme。
しかも通信速度は下り7〜10日。
こんな環境でTBSのベストテン中継やコニャック取材などブッキングしてスケジュールは何度も上書き変更された。

僕のブログ「インターネットもクレジットカードも無い1973年、バックパックとニコンFで格安世界一周 写真旅」も世界中から未だにサイトへのアクセスが途切れないし、MAYOさんへのファンレターも、本持ってヨーロッパ行きました。この店の住所教えてなど結構あるそうだ。

当時の格安海外旅行ガイドブックといえば「THE 1973-74 EDITION OF EUROPE on $5 and $10 A DAY」が元祖と思っていたら、1955年に著者のARTHUR FROMMERGIジョーのためのガイドブックを自費出版していたらしい。

僕のおぼろげな記憶は一部のアメリカ人のバックパッカーが列車の通路やユースホステル、駅のベンチや列車案内の下でのぞいていたトーマスクック時刻表かなぐらいの認識だった。
帰国後「DO CATALOG U.S.A.」ってムックを作っていた75年ごろデザイナーのM崎さんが見せてくれた、1日10ドルに値上がりしていた「EUROPE on $10 A DAY」だった。

1955年自費出版  1955年に著者のARTHUR FROMMERがGIジョーのためのガイドブック。自費出版
1957年「EUROPE ON $5 A DAY」創刊号 1957年「EUROPE ON $5 A DAY」創刊号

Japan and Hong Kong on Five Dollars a Day 1965 こんなのもあった。Japan and Hong Kong on Five Dollars a Day/協賛JAL
europe 5$ A DAY1967 1967年は「EUROPE ON $5 A DAY」
1973年は「EUROPE ON $5 AND $10 A DAY」

バックパッカーのための現地踏破の詳細イラストタウンマップつき格安旅行ガイドを目指し、
「カイロの愛しのクヮレンティーナホテル(隔離病棟)」「やってきましたイスタンブール」
「パリの地下鉄メトロライブ」などMAYOブログに加え、 貧乏旅行のための基本12か条、
安い切符の探し方、盗難防止法、庄野真代の採点付きユースホステルガイドなど旅の豆知識満載本。
サイズはバックパックのサイドポケットから出し入れしやすい130W×260H㍉に決めた。

 

庄野真代のTHE世界漫遊記 庄野真代のTHE世界漫遊記 「庄野真代のTHE世界漫遊記」1982年4月1日サンケイ出版刊

著者:庄野真代
写真・イラスト:小泉正美
企画・構成:西田圭介

バックパックで世界一周・11カ月間・140都市
二人でなんと250万円!

200万円のトラベラーズ・チェックをしっかり腰にくくりつけ日本を出発、LAに辿り着くまで28カ国、140都市。途中で50万円補給したけど、食べて泊って移動して、よくやりました。

★ ギリギリで貧乏旅行するための基本12か条
★ 頭を使っていかに安い切符を探し出す法
★ 怖いけれどども、あえてヒッチハイクのすすめ
★ 盗難防止法
★ 世界のトイレ事情
★ 真代の採点表付きユースホステル・ガイド


時を戻そう。

MAYOと旅する 1980年


バックパックで世界一周・11カ月間・140都市
二人でなんと250万円!

200万円のトラベラーズ・チェックをしっかり腰にくくりつけ日本を出発、LAに辿り着くまで28カ国、140都市。途中で50万円補給したけど、食べて泊って移動して、よくやりました。

★ ギリギリで貧乏旅行するための基本12か条
★ 頭を使っていかに安い切符を探し出す法
★ 怖いけれどども、あえてヒッチハイクのすすめ
★ 盗難防止法
★ 世界のトイレ事情
★ 真代の採点表付きユースホステル・ガイドほか

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よ〜いドン 

80/04/12


「いつかのんびり気ままに旅をしようね」


これは結婚した時から二人で決めていたこと。
それが実現しそうになったんのは出発の一年前。 パンナム(1991年12月4日に会社破産し消滅)が80日間世界一周のクーポンを、
30万円ちょっとで出していることを友人から聞き、 その気になったのだ。

 

庄野真代のThe世界漫遊記最初はPANNAMのクーポンで80日間世界一周PANNAMのクーポンで80日間世界一周のつもりが⋯⋯


まぶた君(ダンナ様のニックネーム⋯⋯ まぶたがはれぼったいから)は、その日から資料集めに走りまわった。まず、各国の観光局を周り、カタログをいっぱいもらってくる。 そしてトーマスクックの時刻表を買い、読み方をマスターしてヨーロッパの移動スケジュールを立てる。

そのうちに三か月では無理というほど、旅の計画が膨らんでしまい、遂にパンナムの80日間世界一周クーポンはやめにして、他のチケットを探すハメに。

まぶた君は熱心に毎日、旅行日程を作り変えて見せてくれる。私は昔から計画性がないので、こういう念入りなことって気力が続かない。なのに、出来上がったスケジュール表を見てああだ、こうだと文句をつけるんだから全く勝手ね。

さあて、この計画三か月から半年に伸び、一年に延び、「いっそのこと旅の最終地をロサンジェルス
にしてカリフォニアライブを⋯⋯」というところまで発展してしまい、本人もなんだかよくつかめないまま出発の日が来てしまった。

 

庄野真代 世界一周 成田空港 800412 バックパック担いで生まれて初めての合同記者会見に向かう

1980年4月12日。トコロは成田空港VIP室。生まれて初めての合同記者会見を敢行。なにせ初体験、 たくさんのカメラをこちらから写そうと記者に向かってシャッターを押したけれど、あれはちゃんと写ってたんだろうか? 


「どうして旅に出るの?」って質問が多かったけれど、特にかしこまった理由・理屈はない。「旅をしたかったから」── それ以上のことは、旅を始めてからわかることかもしれない。

人生に希望をなくしたとか、自分を見失ったとかは全く無関係だし、いい曲を作るためため でもない。ましてや歴史研究家でもないし、旅行評論家でもなく、普通の青年旅行者。
それも今出来る旅、足を使って、頭を使って、体を使って、今しか出来ない旅をしてみたかっただけなのだ。

搭乗ゲートに入っていこうとした時の見送りの友人たちがみせたなんと心配そうな心配そうな表情!
そのうちの一人ナヲちゃんなどは急に涙をいっぱいためて「死んじゃダメよ」なんて抱きついてくるもんだから、すっかりもらい泣きしちゃって、ずいぶんと湿っぽいスタートになってしまった。

涙はみんなにバイバイしたあとも依然止まらず、税関でハンコをもらうあたりに絶頂となり、すすりあげて機内の人となった。あ〜あ、やっぱり日本人。

もっとハッピーに出発すればよかったなあ。

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ウォーターフェスティバルで
ずぶ漏れになった       

80/04/14


眠いけれどしかたがない。水上マーケットに行くために6 時30分に、ソムチャイさん、ゆうこさんと待ち合わせをした。
パンコクのAIRPORT からのマイクロバスの中で知り合ったソムチャイさん夫妻にはお世話になりっぱなし。

トクトクで水上マーケット近くのお寺まで行く。 いかにもタイらしい極彩色のお寺が並ぷあたりを通り抜け、船符き場に出た。
ガイドプックには「ポートの値段は交渉次第だが、一人約100 バーツ」と書いてあった。が、ソムチャイさんの巧みな交渉で四人、130 パーツになった。一人あたり32.5パーツ。やはり観光客はぽられているのだ。(1980年当時のレート、1バーツは十円)
ポートがいっぱいの船着き場を出ると製木豆幅100 メートルもある広い川に出た。岸辺には小さな家が密集していて床の下ーは水が流れている。
ちょうど朝なので子供から大人までみんな川の中に飛ぴこんで歯をみがいたり、頭を洗ったりしている。まさに川が生活のすべてなのだ。

庄野真代のThe世界漫遊記 バンコック ウォーターフェスティバル このあとずぶ濡れに

しばらく走りオリエンタルホテル(一般観光客用のツアーポートがここから出る)近くで給油をして、いよいよ水上マーケットのある細い支流へ、入ってゆくのだ。
今日は祭日で、おとといから始まったウォーターフェスティパルの最終日。さっきの岸辺の家の子供たちもいっせいにボリエチレンの袋入りの川の水をプンプン投げてきた。幅7 、8 メートルしかない河の両側、橋の上でズラッと子供達が水袋を手に並んでいる。もう逃げ場がなかった。
ソムチャイさんが立ちあがり、タイ語で、

「この人達は外人だから投げてはいけない」

と叫んでもいっこうに気にせず、後から横から前から上から、キャッキャッと喜んで投げまくる。
頭に何発もあたり、早くもぐっしより。まぷた君は真剣な願でカメラの上におおいかぶさっていて、私をたすけるどころではない。川の水といっても泥でにごっていて不潔きわまり ない。もっと川輻がせまくなると、パケツで水をかけられた。もうメチャクチャ。
他のポートの白人中年女性はほっぺを真っ赤に腫らして泣いていた。
ところがパックツアーらしい日本人三十人ぐらいの団体の乗っているポートは、攻撃されるや否や。ハッと厚手のピニールのカーテンを下ろし、完全密封の状態になり、涼しい顔で子供達の投げる姿を見ている。 ムカッときたが、我々の方がウォータ—フェスティパルを正しく体験していると心を慰めつつ堪えたのだった。

前に何度も水を投げつけられた外人が怒ってけんかになったり、発砲したりの事件があり、問題になっているらしいが、水をかけたことに対して怒ると、健康を祝うお祭りなのに何故怒ると、逆にけん
かになるという。でもパンコク市内では、外人観光客に対する水のかけ合いは禁止されたらしい。
事実、昨日は何もされず、笑いながら水をかけられているおもしろい風習を客観視していたのだ。
でも今日、実際に体験してみて、くさい水でずぷ濡れにされ、とても徴笑がえしなどできません。

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トクトクについてとくとくと語る

 

街をプラブラしていると5 分に1台、いや2 分に1 台はタクシーや、トクトク(オート三輪のタクシー}が寄ってきてクラクションを鳴らしニヤニヤしながら乗れという。こっちもニヤニヤNO という。足をたたいて、Just Walkingというが、それでも乗れと言ってついてくる。
走る昔からついた名前らしいがそれぞれデコレーションを工夫して走ってくる。

勿論、値段は交渉制。最低料金で8パーツと現地の人に教えてもらったので、近距離の時はいつも8 バーツといって値切り始めた。初めは25バーツとか30バーツとか言ってふっかけてくる。ところが8バーツというと、向こうは一瞬『こいつ知ってるな』とギクッとしてすぐ12バーツとか下げてくるから、10バーツぐらいでまとまれば成功だ。値段がおり合わなかったら、すぐバイバイすればよい。トクトクははいくらでも走ってるのだ。ただ距離がどのくらいあるか普通わかるはずないので、まずいくらかを聞いて、そのふっかけ具合で値切る術を覚えた。

例えば我々が体験したふっかけ航段と、決まった筑設の実例歩普くと25バーツ→10バーツ、30バーツ→15バーツ、35バーツ→20バーツという具合。少なくとも約半分にはなるとみていい。だから、ふっかけられた値段のまず1/3ぐらいをいう。向こうの下げ方が小さい時はしばらくこの1/3で頑張る。でも肉えば30を10と言って、向こうが20に下げてきたら、15なら乗る、それ以上は絶対に払えない風な態度をとると決まる確率は高い。そうでなくても日本人は令離れがいいと、甘くみられているのだ。

絶対負けないという般然という態度が後からくる日本人旅行者のためにも必要なことなのだ。

庄野真代The世界漫遊記 バンコック 市内の映画の看板 市内には巨大な映画の看板

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パタヤ行きたやゴムゾウリ

 

『僕はパスストップでチケットを売りながら、英語覚えてたんですよ」とアマディーンさんは世間話から自分のことへと話をきりかえた。
よくしゃべる人だ。夕飯を宜べている時に話しかけてきて、海で最近遭難があった話とかを. 一人でしゃべっている。悪い人じゃなさそワだから相槌を打っていたんだけど、.ベースにのってしまったみたい。

「あなたたちはいいですね、そうやって世界を旅して回って、私なんかいくら働いても子供が多いし、一生ここから外へは行けませんよ」
ひとしきり自分の身の上を話してから今度はベトナムの難民がタイにいっぱい流れこんでる話になった。

「ここにだってポロ舟にぎっしり乗った難民がきたこともあるんです。日本は車や電気製品で進出してくるばっかりで、ベトナム艦長に対する救済の手を全くさしのべていない. ベトナムより多少はよいとはいっても、タイだって本当に苦しい生活をしています。どうか日本に帰ったらタイやベトナムに援助の手をきしのべるようにみなさんに伝えてください』
と、話は政治問題にまで発展した。
これはいいかげんにきりあげないと終わらなくなると思い、タイミングを見つけて立ちあがると、アマディー ンさんあわてて言ったのだ。

『あの、ぞれから、住所を教えますから日本に帰ったら私にお全を送ってくれませんか?」

そこに話をもっていきたかったのかと苦笑してしまった。一生懸命話を聞いてあげて馬鹿みたい。
その日、泊まったホテルパンガローの一泊200バーツの部屋はまるで連れこみと雰囲気のせまい暗い部屈で、翌日は奮発してプールつきで海岸線では一番安かった(350バーツというのを3 日泊まるからと300バーツに値切った)パームロッジに移ったのだった.

パタヤビーチはほんとにせまいピーチで、はしからはしまで歩いたって30分で歩けちゃう。海岸線をずっとメインストリートが走っていて主なホテルや店はほとんど面している。公共の乗り物は乗合量トラックパス。小型トラックの荷台に幌 がかかり椅子があってお客さんはそこに乗る。
乗る前に行く先をいうとちょっとふっかけて料金を言われるが‘値切ればたいてい一人3バーツぐらい。我々は二人で5バーツという線を守った。

パタヤにきて時間に余裕のある人は、海岸の突き当たりの小さな港から出る定期船に乗ってコーラン島に行くとよい。
片道1 時間で料金は160バーツ。日帰りにはもってこいだ。

この港のあたりから繁華街が始まり、道の両側にレストランやいかがわしいパーがズラーっとと並んでいる。ほとんどのパーが水兵を相手にしている。アメリカ兵が多いみたい。そしてオカマちゃんが多いのだ。昼間からカモをきがして道をウロウロしているので気味悪いのなん の。
このガラ悪街を100メートルぐらいガマンして歩くと急にガラ良街 になって、新鮮な海の幸を安く食べさせるチャイニーズレストランが並ぶ。一度「NANG・NUAL」で夕飯を食べたんだけどおいしいの、なんのって、Cheek Downでした。

このへんの料金的相場はやはりバンコクよりすっと高い。リゾート地だからかな。
例えば、コカコーラがパンコク市内では3バーツで飲めたのにここでは5〜8バーツ。ホテルやレストランだと、10バーツもとられる。それに中流ホテルでさえ盗難が多いらしい。

同じホテルに泊まっていて、プールで知りあったイラン人(この人まぶた君と国際レース平泳ぎ25メートル決勝をやって負けた)は、前の日に2500ドル知らない間に盗まれて、これから香港、日本へ行こうと思っていたのに行けなくなったと言っていた。
「イランも行きたかったけれど政治状態が悪いからやめた」というと、
この人、笑って「あんなに大きわざしてるのは新聞やマスコミだけで、危ないのはほんの一か所。みんな平和に暮らしている」と言っていた。
でもあれからイラクとの眠争も始まって、あの人どうしてるかなって思う。お金持ちみたいだから一番先にどこかに逃げてるかもね。

一番楽しそうな遊びはパラセーリング。背中にパランュートをつけてモーターボートにひっぱってもらう。.一回250パーツぐらい。
我々はこれからのインドにそなえてもっぱらプールサイドで甲羅干し、お土産なんて何も買わなかったが、まぶた君用のXLのゴムゾウりを値切って15バーツで買った。このゴムゾウリすばらしく長持ちした。
インド、チュニジア、モロッコの熱い大地を踏みしめてベナペナになり、スイスはアルプスの中程で息つきた。立派! 立派!

パタヤビーチマップ イラスト/小泉正美

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庄野真代のTHE世界漫遊記 インドからの手紙

カルカッタからの手紙

80/04/20

来ただよゥ、来ただよゥ── INDIAに来ただよゥ。
地獄だよゥ。地獄だよゥ。まさに着いた夜のカルカッタ(2001年にベンガル語の呼称であるコルカタに正式名称が変更)は地獄。

夜8時40分にカルカッタに着いたのはいいけれど、まずイミグレでひっかかったのね。できすぎた顔の兵隊みたいなオッサンに、T・C 8,000ドルは金額がでかすぎると申請書を書かされ、税関でカメラとテレコの機種までチェックされて、表に出たのが9時30分。pepe が言ってたようなタクシーの運ちゃんが集まってこないわけ。目つきの悪い男が寄ってきて「私はガパメントオフィサーです。私についてらっしゃい」てんで、タクシーのところまで連れていかれ、ツーリスト用のタクシーに乗せようとしたのね。

How much?と聞いてもメーターだからわからないというので、しつっこく聞いたら、50ルピーだというのでアホいうな!教えてもらった怒りをまずぶつけてみたのね。
もっと安くしろと言ったら、じゃ乗らないでいいからパスで行けという。リムジンがあるというのだけれど、あたりが真っ暗の中に電気のついてないバスが確かにいるわけね。大見得切った手前仕方なくバスに乗り、車掌みたいなオッチャンに、いつ出るのと聞くと、10時20分ということで待つことにしたのだけど、我々の他にも客がいない。しかも電気がついてなくて、まわりも真っ暗。

10時30分になってもウンでもスンでもないので、重い荷物を担いでタクシーの方へ行ったら、さっき大声でToo expensive(高すぎる)なんて言ったものだから、みんな知らんぷり。
仕方なく暗い中をまたさっきのバスに戻ったわけ。

多少ブルーになった頃、国内線が着いたみたいでお客が一人二人とふえて満員になった(まだ電気は点いてない)。やっと出発したのが10時50分。最終的にはオベロイの予約があるけど、470ルピーは辛いのでリットンホテルに行こうと思い、運ちゃんに降ろしてね、降ろしてねと懇願。
マヨはボールペンの方がよいと申しますのを、私がケチって舞妓さんの絵はがき一枚で頼んだのでございます。

街に向かって行くと、だんだん地獄の様相を見せてきた。
ネオンなんかどこにもない。真っ暗の中に廃墟のような街がつながり、道端にいっぱい何か黒いものが転がっている。
マヨと何かなと言いながらじっと見ますと、な、な、なんとそれは人なのです。
重なりあって死んでいるようにずっと……もう二人とも言葉もなく、ただジっと目をあけたままになっていました。たまに向こうの方から真っ暗な中を、人がぎっしり釆ったパスが、お化け屋敷のように通りすぎる。リットンがもし満員だったらオベロイが近いといっても100メートルはあるので、荷栃をしよってホームレスの中を歩くのかと思ったら.汗が1本ツーっと額をかすめたのでした。

リットンで降りたのは我々のほかにインド人が五、六人。暗いオフィスに電気がついてオフィサー にインド人が懸命に泊めてくれと言っているのに、満員だから、どこかほかへと言われてる。
我々の順番になって死ぬ気で、I want to make a reservatlon two people from Japan! といったのです。そしたら何とOK 。あー、よかった。
a/cはなくてFanだったけど、広い部屋でガイドブックには1泊75ルピーとあったけど、120ルビー+12ルピー{サービス料)に値上げしていました。

夜が明けましたが、一歩表に出ますと、いろんな兄ちゃんが寄ってきてカメラを売ってくれ、テープレコーダーは持っていないかとうるさいのなんの。こじきは思ったより少ないけど、足がない者、目玉がとびだしてプラプラしてる者、ひざとおなかが何故かくっついている者、多種多彩。
昼めしを食おうにもどこに入ったらいいのか全くわからず、まして夜など、ホームレスがゴロゴロしてる中を歩いてレストランにも行けないし、二人二人で協議の結果、隣の3食付き170ルピーのフェアローンホテルに22日に移ったのです。

こんな街は早く抜けだそうてんで、ダージリン行きの、Eastern Railway Booking Officeに行き、切符が欲しいというと、ダージ リンはPermisionが必要だから、Permsion officeへ行けという。そこに申請に行くとできあがるのは明後日。しかたなく2日後の23日取りに行って、きあ切符を買おうとツーリストオフィスに行くと、いろいろ書類を作ってくれ、これを持ってチケットの販売カウンターのN03 に行けという。やっとそこを見つけて行ったら人がいっぱい並んでる。しかたなく列の最後について並ぶ‘こと1時間以上(それでも十五人くらいしか並んでなかったのに)、ところが切符を作るノロノーロ男が、涼しい敵でカウンターの前にclosedのふだを置いたのです。明日の朝10時からやってるからというが、インド人に聞くと朝6時からみんな表に並ぶという。

あー 、もうやだ!頭にきてホテルに帰り、もうダージリンには行かない!ということになって今朝インディアン・エアラインのオフィスで、26日土脳のカトマンズ行きの干約をしてきました。
もーやだ、こんな街。でもここんとこだいぶカルカッタの街にちなれてきて狭い路地も歩けるようになっただよ。「インドを歩く本に載っていた安宿ホテルパラゴン(l 泊 8ルピー W15ルピー )にも行ってみたけど、ワシらのフェアーローンホテルはヤモリもいるけどきれいだぜ。

《 真代のコーナー 》

だいたいこんなとこですが、豊かな気持ちで安上がりな旅をしようというのがモットーなのに”まぶた”が毎日何度も何度も、コーラやジュースやビールを飲んで、おやつ代が大変。
そんなことないよ。これは暑い土地を旅する必要経費です。
いいえ、常識をはるかに超えています。水を飲め!

”まぶた”がオナラマンになりました。
いいえ遣います。これはホコリにまみれたカルカッタ空気を清浄しているのです。
おまえの方こそガンガンメシ食って、おなかが痛いといってるくせに下痢がやっとなおったくせにえらそうなこというな!!

この汚れたカルカッタで部屋にいる時ぐらい静かに滑らかに過ごしたいのに、オナラ反対!!
るせーこのグウグウ寝女!
この町にいるとこんなふうな情緒不安定男ができるようですね。
るせー早くセンタクしろい!メシの時間だ!

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カルカッタにて

80/04/23

昨日の夜は、窓の外で工事をしていて人の声や、物音がうるさくて眠れなかった。
だいたい、カルカッタの工事ときたら …… 。 

カルカッタのホテル

 

TO BE CONTINUED

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インド・ネパール旅行の宿命GERI

80/04/26

カルカッタを早く出たい一心で出尭の1日前にフェアローンホテルをひきあげて、
空港のレストハウスに移った。
少し早いけれど、空港まで歩いて15分はかかるので、10時30分出発。
エアコンのきいた涼しいエアポートのロビーでのんびりしていると時間になったので手続きし出国税1人50ルピーを払うとカウンターで飛行機が遅れているのでめしでも食ってこいと食券をくれた。
レストランの奧のバイキングコーナーでめいっぱい食べる。

まぶた君は気分が悪いと食欲がない。

飛行機はコロンポから1 時間遅れて到着。2時50分にカルカッタ空港を離陸した。
ヒマラヤの山々に囲まれたたカトマンズ空港は、ここが国際空路かと思うほど素朴で小さかった.。空港内の銀行は一回に50ドルしか両普できない。

カトマンズ ヒマラヤンビューホテル界隈で

外に出ると、お決まりの、いろんな子供や大人ごっちゃまぜの団体にかこまれる。
シャワーがあるとかセンターに近いとか、みんな勝手なこと言って自分のナワパりのホテルに連れていこうとする。まぶた君は一歩も動けなくなり、大声で「ヒマラヤンビューホテル!」というと、一人がサッと手をあげて、私がフリーで連れていくという。
その男のタクシーまで行くと、フリーと言ったくせに60ルピー(ネパール・ルピー NR)と言うので怒って紙に20NRと書き無理やりその横にOKと書かせる。こうでもしないと信用できない。
タタンーが走り出すと、運ちゃん、客引き、他に関係者二人に我々と六人も乗っている。
案の定、客引きはヒマラヤンビューはno goodで、最近値上がりしたからこっちの方が安くてきれいだと、ホテルのネームカードを見せだした。
客引きが暫命に安いとすすめるので、一回だまされてみることにして、そのホテルを見て気にいったら泊まるけど気にいらなかったらヒマラヤンビューに連れていけ、そして、もしそのホテルに決まったらタクシー代ただにしろというと、客引きは多少悩んだが0Kした。

車の中で「ゴダイゴが2 か月ほど前にコンサートをしただろう」というと、そいつは「私はゴダイプの友達だ」という。だから「私は歌手でゴダイゴと同じレコード会社。やっぱり友達よ」というと、急にギクッとしてすっかり乗り気になりホテル代安くするように交渉してやると宮いだした。
実際に到着してから交渉してくれホテル代が安くなった(ツイン50NR→41NR)。
ホテルスナッグはニューロードのつきあたり宮殿あとのゴチャゴチャしたもう全体が遺跡という感じの広場を左に入った、えらくホコりっぽいところだったが、いかにもカトマンズらしかったので泊まることにした。

部屋に入ってホッとしたら、まぶた君が急にグッタリしたので熱をはかると8度をこえていた。
おなかが痛いというので宿命のGERIを直感。
何だか私までおかしくなってきてその晩から二人してヒマラヤGERIの洗礼をうけることになった。

インスタントみそ汁を持ってきたのを思い出し、きっとおなかによいと思ってホテルの子供にボイルドウォーターを頼んだ。しばらくして持ってきたお湯は賞色っぽく、小さなモロモロが中にうごめいていたので、沈むのを待ってから、みそ汁をつくった。
まぶた君は「オイシイ、オイシイ」と言って飲む。「あっワカメだ!ネギだ!」と二人で大さわぎ。おなかにしみこんでいく。
それでもまぶた君の熱は、とうとう9度近くまであがり、ウンウンと苦しそう。その晩二人は、

定期便のように下りトイレ行きの特急を走らせたのでした。

インド・ネパール旅行の宿命GERIとゴダイゴ

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ベナレスの雀物語

80/05/04

拘熱のベナレスでは、政府直営のツーリストバンガローに泊まった。ツインで25ルピーの部屋に連れていかれると、表に面した広い窓の上が割れていて、雀が自由に出入りし天井ファンにとりつけてある大きなファンの根っこに巣を作っていた。そして、よく見ると、その巣から死骸が一つぶらさがっている.。かろうじて足がひっかかっているだけでいつベッドの上に落っこちてくるかわからない。すぐポーイを呼んでとってもらったが、その時ついでに巣もとりのぞき、きれいにしてしまったのだ。

そうしてこの可哀相な雀物語が始まる。

この日は、早めに寝たがもう地獄の暑きだった。どうしようもなく寝苦しい。ベッドは電気敷毛布を強にしたような感じで、どこに手を伸ばしても足の位置を変えても熱い。うだる暑さで起きると、まだ寝てから2 時間ぐらいしか経っていない。ベッドの上でハアハアいい、頭をかきむしり、ドタパタ暴れまわって、やっと空が明るくなりはじめた。隣の部屋のスイス人カップルも、この暑さにまいってしまって夜が明ける前から廊下に椅子を出してしゃべっている。4 時頃から2 羽のオスとメスの雀が窓とファンの間を往復している。

私達がくるまでは、しばらく部屋に人が入らなかったらしく幸せなカップルだった小島が、人間の勝手な巣払いと、夜通し回すファンのせいですっかり不仲になってしまった。メスがいやになって出ていってしまったのだ。オスはやせていて小さいけれど、働きもので情熱家。何度もメスを呼びにいっては連れ帰るがメスは、ファンの上のもとの県だったところをのぞいてみて、「ワラがはいってないじゃない」とまたプイッと出ていってしまう。 オスは一生懸命小枝やワラを運び、そのたびにメスを連れてくるが、メスは窓のところから中に入らない。オスは何度もファンと窓を往復して、「ほら、ずいぶんたまったよ」とか、フアンが回っていても、天井すれすれに飛べば大丈夫だよ」と熱心にメスにすすめている.。一回に1本か2 本のワラをくわえてきてオスは一生懸命巣を作る。メスもそのうち出ていかないで、窓の上から見てるようになった。 少しずつ運んできても半分はファンにあたってベッドの上に落ちてしまう。それでもオスは運んではまた出かけていく、 そのうちメスも小枝を運んでくるようになった。 オスの根気の勝利である。ずっと見ていて本当によかったなあ、と嬉しくなった。

私達人聞が出かけて部届にいない間が、この二人にとって幸せな時間だったはずなのに、1日おいた次の午前中悲劇は起こってしまった。

その日は朝早くから停電でファンは止まっていた。そして私達はプールに行ってl 日中涼しく楽しく過ごし部屋に戻ってきた。ファンがカランカランと音を立てて回っていて、部屋のすみで働きものの小鳥がじっと横たわっていた。

死んでいる。

私のせいだ。

停電で止まっていたファンに気づかず、スイッチを切らないで出かけたので、途中電気が入り急に回りはじめて、それにあたって死んだんだろう。どこかにはねとばされて、それでも窓の方へ移動し、そζで力早きたんだろう。傷口はどこにも見当たらなかった。静かにひっそりとそこにいた。

白い紙にソッとつつんで、ベッドの上のワラを片づけて、屋上に上がった。小鳥を空に一番近いところにおいてあげたかったから⋯⋯。
しかし屋上はカラスでいっぱい、つつかれるといけをいので、しばらくしんみりとしてから部屋に連れて帰つた。いつもならドアを聞けて、ベッドの上に散らばっているワラくずや小枝などを見て、アーアーなんていいながら払いのけていたのに、今は何もなくて真っ白のシーツが悲しい.。

しばらくしてメスが1本枯れ草をくわえて帰ってきた。他の大きいオスが追いかけてきたみたいだけど、ファンの上の巣の中に入ってじっとしている。最愛のオスが死んだのを知っているんだろうか。見てたんだろうか。他のオスが窓のところでしきりにメス歩呼んでいる。そのうちファンのところまで飛んできて、メスを誘って一緒に行こうといっているが、今のところメスはじっとしている.。

あのやせたオスが作った巣の中で⋯⋯。

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庄野真代The世界漫遊記 インドのスケジュールは余裕を持って

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ベナレスの雀物語

80/05/04

拘熱のベナレスでは、政府直営のツーリストバンガローに泊まった。ツインで25ルピーの部屋に連れていかれると、表に面した広い窓の上が割れていて、雀が自由に出入りし天井ファンにとりつけてある大きなファンの根っこに巣を作っていた。そして、よく見ると、その巣から死骸が一つぶらさがっている.。かろうじて足がひっかかっているだけでいつベッドの上に落っこちてくるかわからない。すぐポーイを呼んでとってもらったが、その時ついでに巣もとりのぞき、きれいにしてしまったのだ。

そうしてこの可哀相な雀物語が始まる。

この日は、早めに寝たがもう地獄の暑きだった。どうしようもなく寝苦しい。ベッドは電気敷毛布を強にしたような感じで、どこに手を伸ばしても足の位置を変えても熱い。うだる暑さで起きると、まだ寝てから2 時間ぐらいしか経っていない。ベッドの上でハアハアいい、頭をかきむしり、ドタパタ暴れまわって、やっと空が明るくなりはじめた。隣の部屋のスイス人カップルも、この暑さにまいってしまって夜が明ける前から廊下に椅子を出してしゃべっている。4 時頃から2 羽のオスとメスの雀が窓とファンの間を往復している。

私達がくるまでは、しばらく部屋に人が入らなかったらしく幸せなカップルだった小島が、人間の勝手な巣払いと、夜通し回すファンのせいですっかり不仲になってしまった。メスがいやになって出ていってしまったのだ。オスはやせていて小さいけれど、働きもので情熱家。何度もメスを呼びにいっては連れ帰るがメスは、ファンの上のもとの県だったところをのぞいてみて、「ワラがはいってないじゃない」とまたプイッと出ていってしまう。 オスは一生懸命小枝やワラを運び、そのたびにメスを連れてくるが、メスは窓のところから中に入らない。オスは何度もファンと窓を往復して、「ほら、ずいぶんたまったよ」とか、フアンが回っていても、天井すれすれに飛べば大丈夫だよ」と熱心にメスにすすめている.。一回に1本か2 本のワラをくわえてきてオスは一生懸命巣を作る。メスもそのうち出ていかないで、窓の上から見てるようになった。 少しずつ運んできても半分はファンにあたってベッドの上に落ちてしまう。それでもオスは運んではまた出かけていく、 そのうちメスも小枝を運んでくるようになった。 オスの根気の勝利である。ずっと見ていて本当によかったなあ、と嬉しくなった。

私達人聞が出かけて部届にいない間が、この二人にとって幸せな時間だったはずなのに、1日おいた次の午前中悲劇は起こってしまった。

その日は朝早くから停電でファンは止まっていた。そして私達はプールに行ってl 日中涼しく楽しく過ごし部屋に戻ってきた。ファンがカランカランと音を立てて回っていて、部屋のすみで働きものの小鳥がじっと横たわっていた。

死んでいる。

私のせいだ。

停電で止まっていたファンに気づかず、スイッチを切らないで出かけたので、途中電気が入り急に回りはじめて、それにあたって死んだんだろう。どこかにはねとばされて、それでも窓の方へ移動し、そζで力早きたんだろう。傷口はどこにも見当たらなかった。静かにひっそりとそこにいた。

白い紙にソッとつつんで、ベッドの上のワラを片づけて、屋上に上がった。小鳥を空に一番近いところにおいてあげたかったから⋯⋯。
しかし屋上はカラスでいっぱい、つつかれるといけをいので、しばらくしんみりとしてから部屋に連れて帰つた。いつもならドアを聞けて、ベッドの上に散らばっているワラくずや小枝などを見て、アーアーなんていいながら払いのけていたのに、今は何もなくて真っ白のシーツが悲しい.。

しばらくしてメスが1本枯れ草をくわえて帰ってきた。他の大きいオスが追いかけてきたみたいだけど、ファンの上の巣の中に入ってじっとしている。最愛のオスが死んだのを知っているんだろうか。見てたんだろうか。他のオスが窓のところでしきりにメス歩呼んでいる。そのうちファンのところまで飛んできて、メスを誘って一緒に行こうといっているが、今のところメスはじっとしている.。

あのやせたオスが作った巣の中で⋯⋯。

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ベナレスの砂嵐

 

ベナレスはとにかく暑い。持参した紙の温度計の40度Cまで色が変わっている。もう暑くて暑くて昼寝するにも、ベッドが湯タンポみたい。そこで我々は文明社会においては、とても想像できない清涼法を尭明した。

まず服を着たまま水シャワー(といっても半ばお湯みたい}をあびて、グッショリになる。
次にパケツに水をくんで、部屋中中コンクリートの床に水をしっかりとまき、
ついでにべッドも水浸しにしてその上にパタッ。これが掠しいのなんの って、まるで冷雌庫。

学校で習った気化熱の原理を灼熱のインドで利用したのだ。

しかし、体にはよくないね。乾燥しているから、2 、3 時間後にはもうバリンパリン。

そんなベナレスの2 日目は、風が強かった。
昼寝した後部屋にいると、急に部屋の中がほこりぽくなったので、
空気を入れかえようと窓を開けると、逆にモクモク砂ぼこりが入ってきてあわてて閉める。

初めは何がなんだかわからなかったが、ぬれタオルで鼻と口をおおい、
外を見るともう1メートル先も見えない。
おまけに停電のダブルパンチ。
勿論インドでの停電は日常茶飯事だけれど、こういう時は辛い。

ツーリストバンガローの食堂にタめしを食べに行くと、
テープルの上はふいてもふいてもザラザラ、食べものもジャリジャリ、
口の中も砂だらけ、とまさにこの夜は砂地獄。

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恐怖のチャイニーズ・レストラン

80/05/06

ツーリストバンガローの真ん前にあるレストランは、
チャイニーズの看板は出しているものの、いつ通っても客が一人もいない。

しかし、なんせ、おなかが減っていてて商店街の方まで出る気力はなかったので入ってみたのだ。
ほこりまみれの椅子をはたいて座り、人を呼ぶと、えっ?お客さん?とまるで信じられないといった顔で、17、8歳の少年が出てきて、我々の頭の上だけのファンだけ回す。
何かコメディで”5年ぶりの客”みたいなコントがあったのを思いだしておかしくなったが、
まさにそんな感じ。

メニューは汚れているが、ちゃんとあった。
フライド・ライスとスプリングロール、ミックスベンタプルとピールの冷たいのを頼むと、
少年はニッコリ笑って調理場にひっこんだ。

きあ.それから待つこと30分。

ウンでもなければスンでもない。おなかがすいているから近くにきたのにと頭にきて調開場にどなりこむと人がいない。
そこにあった空間は調開場と呼ぶのをためらうほど荒れていた。
もうちょっと奥へ入って「ピールはまだか?」と聞きに行くと、

少午がしゃがんで水道の水でピールを冷やしていた。

ちょっときまり悪そうにしていたが、そのピールをテープルに運んできた。
しかし生ぬるい。水道の水で冷やしたって⋯⋯と、怒る気にもなれず、ひとまず「氷もってきて」というとこいつはすぐ持ってきた。
ちょっと深めの皿にわらにまみれたくずれ氷が人っている。
ていねいにわらをとってコップに入れたころには、ピールの気はぬけている。
あーあ、もう早く料開もってこい!と言ってからかれこれ30分経つころ
フライドライスが出てきた。少年の顔はやっと作品を仕上げた高足感にあふれでいた。

「ね、これフライドライス?」

質問にコックリとうなずくと、次の作品にとりかかるべく調理場にさがった。
それはフライドライスというより炭のかたまリという感じの真っ黒な小さなかたまりの集合体だった。
「2 年使つてないほこりまみれのフライパンに水分の蒸発した、ねとねとのソイソースを使った焼きめし」とい う感じ。

実際テーブルの上にあるソイソースのピンの中のしようゆは、きかきまにしても動かなかった。
そうしてるうちに、ミックスベジタブルができてきた。
もう言わなくてもわかるとおりそれは黒いかんぴょうのようになっていた。
もう完全に顕にきて、少 年にスプリングロールのキャンセルと帰ることをつげると、
何故か、向こうもホッとしたようだった。

彼は彼なリに悩んだのかもしれない。くるはずのない客が きたから。

それでも私は挑戦して食べ、正露丸をのんだ。

女ってすごい。

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ニューデリーは大都会

80/05/14

ここはプロブハットホテル。窓の外はすぐコンノートプレイス …… 。 TO BE CONTINUED

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ミラノ生き別れ事件

80/06/29

この話、友人のナヲちゃんも加わって3週間ヨーロッパを小さくくるっと回った時、生き別れになりかけたというお話。

ミラノから夜行でパリに向かうため発車の1時間前にホームに入った。すでにそのホームには、すでに立派な列車が止まっていて確かにパリ行きと書いてある。今日はついているなあ、こんな新しくてきれいな列単に乗れるなんて⋯⋯と急いで乗り込みリザーブの札がかかっていないコンバートメントを見つけ、荷物を棚にのせ靴を脱ぎくつろぎはじめた。三人で一部局占領しちゃってるわけだが、お客さんもあんまりいないし。あんまりどころか、まだ誰も乗ってない。みんなのんびりしてんだな。それにしてもドアは全
面ガラス張りで何もかもが新しくて、立派な列車だ。これが噂のT・E・E かも知れない。アレッ?T・E・E って夜行はなかったんじゃない.。でもいいやと、手提げげカパンからクッキーを取り出しぱくつき始めた。ナヲちゃんが「売店でワインを買ってくるわ」と列車を降りた瞬間、ガタッと動いた。どうしたんだろう。なんでもないよ、という二つの気持ちが激しく交互に胸に押し寄せた時、この列車スッーと動きだした。速度が増していく。「どうしょう」あわてて廊下に飛び出しキョロキヨロしたら、近くに同じくアタフタしているイタリアの学生二人がいた。ホッ、事件はなんら解決方向に向かってはいないが、仲間がいたことで多少ホッとした。

それまでの青ざめようったらなかったもの。
お先真っ暗って、このことだ。

四人で通じないながら、ああだ、こうだと言いあっていたら、車掌がやってきた。あー これで展望が少し広がった。車掌はこの列車は車庫に入るという。そこから駅まで戻るしかない。車庫から駅まで2 キロはある。この学生たちについて行けばなんとかなるかもしれない。でも、この学生現地人のくせに完全に舞い上がっているから、車掌のいうことちっとも理解してないみたい。車庫には5、6台の列車が止まっていたが、そこにいる人に聞いて、1台がもうすぐホームに行くことがわかった。四人で乗り、じっと発車を持つ。 5 分待ったがホントにホームに行くのか‘確信が持てないし、このまま三人分の荷物を抱えてて夜道にほうりだされたらと不安がいっぱいになった。列車がガタッと動いた時は、涙が 出そうになった。しかし、まだわからないホームが見えるまでは⋯⋯ね。やっとの思いでパリ行きのホームとは50メートルくらい離れたところに到着、私は自分の荷物とまぶた君のショルダーパッグにビニール袋三つを抱えフーフー走り歩き、まぶた君は自分のほかに ナオちゃんのパックパックを持ち小さいパッグを肩からナナメにかけている。

私、40キロは持っていたな。でも、重いも、疲れたも言ってられない。

とにかくパリ行きホームに行かなきゃと足を引きずって腰を曲げて頑張った。
「ナヲちゃーん、ナヲちゃーん』とまぶた君は大声で叫びながら歩いている。
「ハーイ、どうしたの」ナヲちゃんがニコニコ顔で登場した時は全身の力が抜けてしまった。
バラバラになっても、パリで連絡がとれるしナヲちゃんもバスポートとお金は自分で持ってたんだから、アセらなくてもよかったかもね。

再度、乗り込んだ正真正銘のパリ行き夜行、席に着いて汗をふいていたらさつきのイタリアの学生たちが廊下を走り、この車両はパリ行きじゃないと移動している。 またまた、荷物を引きずり前の方に移動。

あーあ今日はよく走る日。

 

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ついに野宿。
リスボンの夜は長かった

80/08/15

庄野真代The世界漫遊記 
ついに野宿。リスボンの夜は長かった

……  TO BE CONTINUED

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サン・ピエトロ寺院で、
日本に行く前のヨハネ・パウロ二世に
会うことができた

80/10/26

庄野真代The世界漫遊記
サン・ピエトロ寺院で、日本に行く前のヨハネ・パウロ二世に会うことができた
@VATICAN

庄野真代The世界漫遊記
サン・ピエトロ寺院で、日本に行く前のヨハネ・パウロ二世に会うことができた
@VATICAN 庄野真代The世界漫遊記
サン・ピエトロ寺院で、日本に行く前のヨハネ・パウロ二世に会うことができた
@VATICAN

801026 ヴァチカン ヨハネ・パウロ二世と握手する庄野真代
ヨハネ・パウロ二世は終始、笑顔を絶やさなかった

 

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やってきましたイスタンブール

80/12/06

「飛んでイスタンプール」を歌ってたころ、トルコに詳しい人が私にこう言った。

「この歌を聞くたびに腹が立つ。 イスタンブールには砂漠なんてないし、まるでイメージが連う。よくそんなデタラメが歌えるもんだ」──そりや作詞家に言ってください、と言いたかったかったが、実際この目で見たイスタンプールは意外に都会的だった。空気はかなリジメジメしていて、12月に入っていたせいか雪が降って寒かった。ジメジメ度は日本の梅雨なんてもんじゃない。パックパックの中に入れてあるものすべてが水分を吸いこみ、その思いこと、荷物の重さを量ったら普段より3 キロら重かったんだよ。

町の雰囲気はとてもアンバランス。モスクはどれも優雅で、ため息が出るほど美しい。
しかし……。 TO BE CONTINUED

飛んでイスタンブールMAYOイスタンブールイラスト

 

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決定!パリ公演

80/12/13

パリ滞在中に‘私のパリコンサートが決定した。主催はもちろん我々。お客はパリの一般市民。日時は12月13日の13時より。場所はコンコルド広場の下のメトロのコンコルド駅通路⋯⋯ 。

ヨーロッパは道端で歌っている人が多い。ギターのケースを聞けてそこにお金を投げこんでもらったり。誰もふりむいてくれなくても、ただひたすら歌っている人もいる。前からこんなのやりたかったんだ。伴奏がないとオペラ歌手みたいになってしまう。いや日本語ならお経かな。それであきらめていたんだけど、イスタンプールで、まぶた君がジュンビッシュというマンドリンに似た民族楽器を買った。パリのホテルでポロンポロンとひいているのを聞いていたら、もしかしたらジュンビッンュで歌えそうだ⋯⋯ということになった。

嫌がるまぶた君を巧みにおだて、褒めちぎり、その気にさせてパリ公演決定にもち込んだ。

日本から歌路曲全集ポケット版歌詞集を侍ってきたので、ここから曲のセレクトを始める。伴奏の簡単なのでフランス人に受けそうなそれでいて好きな歌を四曲選んだ。これ以上は無理だし、そんなにやる必要もない。公演は3 日後、15分コンサートだ。衣装も手持ちの中から、中近東っぽさが出るようにしたけれど、あんまり普段とは変わらなかったみたい。まぶた君は、ギターのようにスムーズにいかないと言いながらも、結情それらしくこなしているし、紙に歌阿とコードを書いて、ジュンビッシュの特色を生かしたイントロを作ったり、久しぶりの胸ドキドキ。

きあてやってきました本番が⋯⋯ 。
朝8時起床、いつものようにパンを買ってきて朝食を終え、TBSの長谷川さんに電話をした。今日のコンサートを写真に撮ってもらうため⋯⋯ 。寝ぼけ声で出てきた彼女は「フィアンセと行くわ」と答えてくれた。部屋でおさらい。昨日の夜は、他の部屋のことも考えて控え目に練習したけど、今日は力一杯、声をはりあげた。同宿のみなさんうるさかったでしょう。ごめんなさい。

12時出発。コンコルド駅には1時5分前に着き、スーパーマンIIの大きなポスターのあるとこに座り込み場所を確保した。長谷川さん登場。ジャン・マークというとびきりハンサムなフィアンセと並んで現れた。これは長谷川さん得してるな。

メトロが両方ちょうど一緒に発車し、静かになったところで幕が揚がり、「酒と泪と男と女 」のイントロが姑まる。この中近東風メロディーのイントロにみんなちょっと気をとめるけど、パリっ子らしく無関心をよそおう。歌い初めても依然無関心。

ところがサピの「歓んで〜飲んで〜 」のあたりからみんな完全にこっちを向いてアゼンとしている。ここは声もよくひびくし、アーいい気持ち。

ジャン・マークにあとで聞いたら「トレビアン」とつぶやく人がいたそうな⋯⋯ 。

ホームでは一曲だけにして今度は通路に場所変え。ビニールを2 枚敷き、あぐらをかいて座り、目の前に誘導用のコインをのせた布袋を置いた。
一曲目は「飛んでイスタンブール」。自分の歌を歌うのはすごくいやなんだけど、特徴のあるメロディーだからとレパートリーに入れた。歌い始めると多少珍しいのか四、五人立ち止まって見ているが、すぐにいなくなる。また立ち止まる人がいて真剣に歌っている最中、な、な、なんと銀色のものがピューンととんできてピシッとバックの上に乗った。2フラン玉だ。長谷川さんはフラッンュをパンパンたいて写真を写す。嬉しさで顔がくずれそうになるのを必死でこらえた。

二曲目「かもめはかもめ」。この歌大好きなのにお客が急にいなくなった。 たまに通っても目をやることもせず通リ過ぎてしまう。三曲目「学生時代」。これは調子がいいから受けると思ったんだけど、かすりもしない。 そして四曲目さっきうけた「酒と泪と男と女 」を歌い始めると、人がチラホラ足を止めて見はじめる。この曲フランス受けするのかな。かなり(と いっても五、六人)の人だかりができた。人が集まっていると気になるもんで、通り抜けるだけの人も背のびをして見ていく。

最後のサピを歌っている時さっきからじっと見ていた小太りのおばちゃんがバックをゴソゴソかきまわしている. ムッ。えらいこっちゃ。こりゃお金を入れてくれるらしい。でも曲はもうすぐ終わる。タイミングをのがすと、目の前にコインは飛んでこないことになる「もう一回サピね」まぶた君に合図をした。
「飲んで〜飲んで〜J「チャリーン」なんとおばさんは5フラン玉を投げてくれた。オアリガトーゴザイーと、どのくらい叫びたかったことか。

こうして7フランの収入を得、パリ公演は無事成功のうちに終了した。

バリの地下道では、このたぐいのミュージシャンがわんさといる。自分たちのことはさておいて、ストリートミュージシャンとして成功する三つの課題を発見した。まずうまいこと。 これは勿論第一条件だ。そして良い場岬を確保すること。(乞食と同じだ、なんて思わないで)そして珍しい、ユニーク、人目をひくということ。これさえそろえば大成功間違いなしだ。人がたくさん集まって収入のあるストリートミュl ジンヤンは必ずこの三条件を満たしている。

あなたもたもいかがかな。

庄野真代 パリメトロ公演 コンコルド駅 1980年12月13日
メトロマップのコンコルド駅(赤印)地下通路で初のパリ公演

パリ メトロmap

 

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ニューミュージック歌手として初の快挙
カーネギーホール出演

81/01/10

ニューヨークでカーネギーホールの舞台を踏んだ。
日本の歌手としては、まだ数えるほどしかこの経験はなく、私の知っているのはアイ・ジョージだけだ。

この日のために、真っ赤なジャンプスーツとピンクの髪飾りを買った。果たして、お客は集まるだろうか⋯⋯。

その日がやってきた.。
「NY 歌謡コンテスト」1月10日(日曜日)。at Carnegie Recital Hallにて午後2 時から。

その前に、カーネギーの向かいにある日本クラブにて子選がある。 そう。 いわゆる”のど自慢”に出場したわけだ。朝7時半に起きてンャワーを浴び、仲ぴ放題だった髪をふんわり乾かして、久しぶりのお化粧をする。アイラインの引き方を忘れてしまい、二、三度失敗。余計に時間がかかる。歌詞はちゃんと覚えたはずだし、おなかに力が入らないと困るから、朝食もちゃんと食べておこう。9時前にアパートを出て予選全場に向かった。

凍りついたニューヨークの町を眺めながらいつになく心細い心境だ。
「予選で落ちるかもしれない」、
「いやあ、そんなことはない」、
勿論、予選でダメだったらカーネギーホー ルは見学だけになる。
聞くところによると演歌色の濃いメンパーが集まるという。
ピアノパーやカラオケパーのスーパー スターがノドを競い合うんだから望み薄だ⋯⋯などと考えているうちに日本クラブ到着。
29番の札をもらって胸につけた。

この予選はニューヨーク州の予選で、お隣のニュージャージー州はすでに厳しい子選を終えており、両州から十人ずつ決勝大告に出場できる。
審査員はJ ALやこちらにいる日系人社会の実力者。
選曲に悩んだけれど、多少、演歌を匂わせた方がいいし、シンプルでハッタリのきく歌が⋯⋯
ということでパリでうけた「酒と泪と男と女」にした。
モロ演歌でコブシが回らないからだ。

昔、どこかで歌ってた風な若づくりムード派オジサンや、普段は真面目だが、酔っとマイクを持って離さないサラリーマン風、歌うことが大好きなもとコーラス部主婦。
「ダンシングオールナイト」から「りんご追分」「女の道」とみんな顔を真っ赤にして歌った。

私だってコチンコチンになり、マイクと口の距離もメチャメチャ。
参加申し込み者五十人のうち今日集まったのは四十六人。
ここから十人選ばれて決勝大会へ。
落ちた人はピール半ダースもらって帰るんだけれど、参加費は5 ドルだ。
さあて発表。

昔、も6、7年前にフォークのコンテストを受けて、今と全く同じ気持ちで発表の声を待ったなあ⋯⋯ でも、あの時は『受かるかもしれない』今は『落ちるかもしれない』。前向きに考えられないないのは年くったせいかな。

「⋯⋯29番、酒と泪と⋯⋯」
こう呼ばれた時「ホッ」と肩の力が抜けたけれど、素直に喜べなかったのは、プロ歌手として、他のみなさまに申しわけないって思う気持ちがあったからだろうか。でもね。ジャンルが違うんだから⋯⋯なんて理由をつけて決勝に臨む。

決勝に出場する人はさすがに全員とびきりうまかった。
フランク永井そっくりの「おまえに」、オペラ調の「恋」。ニュー ジャージー州3番の「柔」を歌ったおばさんはうまかったなあ。「意気地なし」もムード満点。

コンテストのあと、何故か野村真樹ショーがあり外人のパンドを引き連れて「一度だけなら」など彼のヒット曲、そ して「レイディー 」などアメリカのポップス、そして最後になんと最後に「酒と泪と⋯⋯」を歌い、約1時間のショーが終わった。

「酒と泪と⋯⋯」は予選でも二人歌ったし、なんだか変な気分。

第5位から順に発表、
5 位は「さよならをもう一度」を歌った元ロック歌手風の大声が出る人.。
第4位は「一度だけなら」のニュージャージーの野村真樹ファンだという40歳くらいの人。
第3位はワシントンから米たギターの弾き語りで、自作の小鯨佳そっくりな曲を歌った人。

ここまできてこりゃダメだ。と思った。
だって私がうまいなあと思った人が一人も入っていない。
確実に1位。2位にその人がくるはずだ⋯⋯。

「第2位17番、酒と泪と男と女を歌われた小泉真代さん」

エッ?もう夢中でステージに駆けあがった。

決勝の時、私の譜面が紛失したため伴奏のタケコさんと打ち合わせ通りの進行ができず、歌の途中で二か所大きなズレがあった。
それも原因で入賞できないと思っていたのに⋯⋯。

第1位は杉良太郎の「すきま風』を歌ったシカゴからワザワザ飛行機で来た人。この人はシカゴの「初花」というおすし屋さんにいて、昨年2 位だったそうだ。
そして1位と2位はロンドン旅行かダイヤモンドという賞品。

司会の人が1位の人に「あなたは男性だから宝石に興味ないでしょう」と強く言ったもんだから
「どちらに?」と聞かれ答えざるを得なくなり、ダイヤモンドが私に回ってきた。
なんて運の強い女だろう。
ロンドンから米たばっかりだしね。

こうして「ニューミュージック歌手として史上初の快挙!! カーネギーホール出演!!」を果たしたわけだ。

そのあとの インタビューで「歌手になりたいです」なんてウソついてごめんなさい。

庄野真代 ニューミュージック敵手として初の快挙、カーネギーホール出演 庄野真代 ニューミュージック敵手として初の快挙、カーネギーホール出演 第2位

 

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NEW YORKのライブハウス

 

NEW YORK のライブハウスの多くは、夜の10時ごろから始まるのが普通。
下手をするとセッティングが遮れて、11時なんていう時もあって、1ステージ目の終了は早くても12時だ。こうなるとNEW YORK に住んでいる人は車で帰るとか、友遣に送ってもらうとか、いろいろ方法はあるが我々旅行者としてはTAXI かBUS 、地下鉄ということになる。

しかし夜中の地下鉄は世界中にとどろきわたるほと、怖いらしいし、パスはなかなか来ないし、TAX I しかないわけだ。

我々はこれをケチって、ピレッジからタイムズスクヱア近くのアパートまで歩いて帰った。

5th Ave から、Park Aveまで道が広くて明るい場所を選んで速足で45分。でもこれは真冬(零下10度ぐらい)だったので、たまたま悪人が出てこなかったけれど、今から考えるとゾクゾクするほど、危険だったみたい。

ライブハウスでは小さいところは別として、ほとんどテーブルチャージ(出演者によって違うが5ドル〜10ドルぐらい。NY は高い)をまず払う。
あとテーブルに着いて飲み物を頼む。勿論、ドリンク代は別。そして入り口の表示をよく見て、テーブルチャージの下にM I N5ドルと書いであったら、これはMINIMUMという意味で、最低一人5ドルは飲み物を注文せよという意味。
ビール1本2ドルとしても1 本だけでも5ドル取られるわけ。我々は5th AVE SOUTHに「BRECKER BROTHERS 」(テーブルチャージ7ドル、M IN5ドル)TRXA に「AVERAGE WHITEBAND」K(テーブルチャージ10ドル、ビール2.5ドル}を見に行ったが、このあたりが相場のよう。

それと有名なミュージシャンが出演する場合は予約した方がよい。しないで行っていくら早く並んでも、子約の人がすべて入れるまでは待たなければならないのだから. 平めに電話して名前と人数だけ言っておこう。

LEFT BANK・Rock=20 EAST1st 電話(914}699-6618
RlTZ・ROCK=E 11th st between3&4Ave 電話{212}228-8888
LONE STAR・COUNTRY=61 5th Ave 電話(212)242-1664
KENNY・SCASTAWAYS・JAZZ=157 BIEECKER st 電話(212)473-9870
GREAT GILDERSLEEVES・ROCK=331 BOWERY・2~3st 電話(212)533-3940
ROCK AWAY・ROCK=113-20 BEACH DRIVE 電話(212)474-5984
CAMOUFLAGE・ROCK=38-17 BELL Blvd BAYSIDE 電話(212)631-7656
ABlNGDON SQUARE・JAZZ=577 HUDSON st 電話(212)255-2788
LEGZ ・ROCK=電話(516}56117611
MY FATHER・SPLACE・ROCK=19 BRYANT・Ave ROSLYN VILLAGE 電話{516)621-8700
WEST END・JAZZ=114 St & BROADWAY 電話{212}669-9160

TRAX・ROCK=100 WEST 72st 電話(212)799-1448

夕飯後「TRAX」という72th stにあるライブスポットへ「Average White Band」を聞きに行くことにした。彼らに関しては割と黒っぽい演奏をする(というより黒人だと思っていた)中堅バンドというぐらいの知識しかなかったが、ひとまず名前の通ったグループなので見に行ってみることにした。お店に電話すると10時30分開演で会場は9時ということなので8時30分に家を出発。同じ8th Aveの先なので歩いて行った。今夜は風が又一段と冷たい。
「TRAX」の店のドアの前に少し人が並んでいる程度で、一人10ドル払って中に入るとかなり真っ暗。ブラックライトのピンスポットでかろうじてテーブルが分かるぐらい。まだ、前の方の席だったので割と良い席(ステージに向かって右側のかげだが)に座れた。(少し後から来た人はもう立見だった。)演奏はキッチリ10時30分に始まる。
アッ、予想した連中と全く違った。

S・N・A・F・U・ROCK=6 Ave {& 21 st) 電話(212)691-3535
BARPE PHILLIPS・JAZZ=5 WEST 19st(5~6 Ave) 電話(212)924-5026
HURRAH-ROCK=36 WEST 62 st 電話{212)541-4909
CLUB 57・ROCK=IRVING Plaza E 15 st 電話(212}982-4863
PEPPERMINT LOUNGE・ROCK=128 WEST 45 st 電話(212}7l9-3140

CBGB(BlueGrass, and Blues)・ROCK=315 BOWERY{&BLEECKER st) 電話(212)989-4052
https://www.cbgb.com/welcome

MAX'S KANSAS CITY・ROCK=213 PARK Ave 電話(212)777-7871
FOLK CITY - FOLK ROCK=150 E 85 st 電話{212)74411973
OLUNNEYS COUNTRY=12 WEST 44 st 電話{21 2}840-6688
STAR AND GARTER・JAZZ=105 WEST 13 st 電話(212)242-3166
BOTTOM LiNE・ROCK=15 WEST 4 st 電話(212)228-7886
TRAMPS-SOUL・BLUES=125 EAST 15 st 電話(211)777-5077
MOSTLY MAGIC・演芸=55 CARMINE st 電話{212)924-1472
GREEN STREET・SOUL=101 GREEN st (PRINCE~-SPRING) 電話(212) 925-2415
ANGRY SQUIRE・JAZZ=216 7 Ave(& 22~23 st) 電話{212)249-9066
ZAPPA,S・ROCK=351 QUENTIN Rd 電話(211)339-9275
THE ROCK LOUNGE・ROCK=285 WEST BROADWAY(&Canal st} 電話(212}925-0960
CITY LlMlTS・COUNTRY=10th st 7th Ave 電話(212}243-2242
ALLEY・S CAFE・JAZZ=77 GREEN st 電話(212)431- 1717
FAT TUESDAYS・JAZZ=17 st & 3 Ave 電話{212)533-7902
etc

CBGB NY ロゴ見て西田も84年か89年のNY取材で行った記憶あり。
https://ja.wikipedia.org/wiki/CBGB
https://en.wikipedia.org/wiki/CBGB

The WEST END THE WEST END・JAZZ

※ 上記リストは現在Google検索確認できないものがほとんどです。1981年以降、店名の一部が変わっているものや閉業、移転などしてますが当時のライブハウス情報です。
例えば、「CBGB」はリース契約の更新がされず、2006年10月15日にパティ・スミスが演奏したコンサートで閉店。2013年にCBGBの一時建物(315 Bowery)が、バワリー歴史地区の一部として、国民史跡登録簿に追加され、現在はCBGB L.A.B(CBGBラウンジ&バー)としてニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に復活しているそうだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/CBGB

 

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TO BE CONTINUED.

 

 

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出発前に調べた格安ホテルリスト

出発前に安宿

 

出発前のMAYO世界一周予定表が「LOVE」って見える

庄野真代 世界一周予定表

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